プレ移住ブルース


組織の中に身を置けば、必然的に社会的な要素を求められるため、主観と客観の中庸を図ろうという自動装置が働きます。


しかしその安全装置が効かなくなる場所に身を置こうと決心した時から…アシュラムで日々ダルシャンを受け、聖地巡りを享受できる境遇に期待で胸がいっぱいになってはいるものの、ときおり脳裏をよぎる懸念があります。それは、自我と妄想の世界、根拠のない自負や主観的な思い込みが真実であり、それこそが正道だと錯覚する類の、ザ・ワールドの住人になってしまいはしないだろか、という不安です。


会社でも社外でも、人格は、何らかの目的を達成しようとする人々と集まって、否応無しでも頭を下げ合いながら進捗していく過程で愛によって育まれ、時には手痛い仕打ちの副産物として磨かれてきたように思います。 私にとって組織に属すというのは、百面鏡の中心に立って一挙一動する感覚、に似ているのかもしれません。 何をやっても、反射反映として自分の言動が反響するので、ツラく感じることもある反面、周りの方たちの反応が人格形成の自動安全装置のように働くため、安心感が、ありました。


しかし、そういった良い意味での社会的束縛から離れ、頭を下げずともさほど障害が起こらない日常…ひたすら鏡に映る自分を見つめて、すべての原因を内観し、自身(自神)と対話を繰り返すことで決着がつく環境に身を委ねれば、思考の癖によって、次第に、そして知らぬ間に、ものごとを自分のよいように解釈して主観を絶対視し始め、聖典の教えさえも自身の思考を正当化するために使ってしまうのではないかしら…と思ってしまうことがあります。 微かながらそういう不安を抱えて、ある方に助言を仰ぎました。


その方は優しく微笑みながら、こう仰いました。「Just listen to your conscience − ただ、良心に従えばよいのです。色んな思いがあなたの頭に浮かぶでしょうし、色んな人がいろんなことをあなたに伝えようとするでしょう。そういったものに惑わされるのではなく、心を静かにし、ただ、良心に耳を傾ければいいのです。」


マインド(頭)の声とハート(魂)の声の違いを、どうやったら常に正しく識別しきれるのか…、私はまだその術を知りません。 もしかして、『良心の声』を、より精妙に聞き分けられるようになるのも、この旅に課された大きな目的の一つなのかもしれません。