アシュラム

アシアシュラムに滞在して3日もすると、ハートがアシュラムに漂う神聖なエネルギーと同化し始め、心が外界に向かおうとするだけで騒々しさを覚え、魂と思考の不均衡を感じて肉体的にツラくなる。アシュラムの中にいるだけで、何の努力をしなくても、身体や精神が自動的に浄化されていく感じがする。
神聖な粉雪がハートに向かって深深と降り積もっていく感じ。
甘い静寂に包まれた空間。
何も考えずにぼぉーっと息をしていると、ネクターのような甘い神聖なまどろみの中で時折、咽かえるような感覚に見舞われる。


変わって、村はどうかというと、粗目の砂埃が四方八方から(苦笑)容赦なくふっかかってくる感じがする。
正門のガネーシャゲートから一歩外に踏み出ると、車の喧騒、煩雑なエネルギーや、ヤスイデスヨという片言の日本語の掛け声によって、せっかく降り積もった神聖なベールが粉砕していく感覚を全身で浴びる。指を開いて水をすくおうとするみたいに、エネルギーが流れ落ちていく感じ。知らないうちに、身体がドッと疲れている。引越ししてしばらく経ってから、このままじゃ、自発的に、気合いを入れて浄いな状態に保とうとしないと、身体が持たないと思った。 長い間中断しているサーダナ(霊性修行)を再開するのにちょうどいい機会かも。。。


こんなに違うなんて、びっくりした。
外に住み始めてやっと、アシュラム内に流れる圧倒的な神聖さを体感する。


どちらかというと比較的、エネルギーとか波動と云われているものに敏感な方だと思う。神聖な書物を読むと瞳が潤って光りを分泌し、邪悪なものを見ると瞬時に腐った魚のように目が濁る。
以前仕事で残忍なマンガの英語校正をしていた際、なんか目が疲れると思って鏡を見ると、文字通り、目が血走って真っ赤に充血していた。被写体は人間でも景色でも同じらしく、単に、目からエネルギーが入りやすい体質だそうな。 かつての知人は、それを人間リトマス紙と例えていた。 言い得て妙だと思う。今のところ、対処法は良い仲間と過ごして、良い環境に身を置くしか、護衛方法を知らない。いつかは人の役に立つ人間になりたいと切望している身として、まだまだ未熟。助ける前にやられていたら、助けるどころかかえってお荷物になりかねない。。。先は長し、である。


「ここの全体の雰囲気を、私の内的存在の反映として感じとりなさい。マンディール(神殿)はあなたのハートであり、私はそこに住んでいます。アシュラムはあなたの実体であり、村はあなたの世俗的欲望です。」…サイババの言葉。


あの、甘い神聖さに比べたら、物質的な豊かさなど取るに足らないものに思える。精神衛生上にも、プッタパルティに来訪されるときはアシュラムの中に滞在されることをぜひぜひお勧め致します。


ところで、誕生日は、一年の中でも最も神聖で、最も神の祝福が降り注いでいる日だそうな。神聖な誕生日に聖者や神の化身のダルシャンを受けることができれば、計り知れないカルマの解消になるらしい。アシュラムでも、オフィスにパスポート(身分証明書)を持っていくと、前方の席に座れるメモを作ってくれて、サイババが通る近辺に座らせてくれる。 

母と妹が来た時には、一緒にアシュラム内のお部屋に泊まるつもり♪   母と妹には、今年の六月にぜひ誕生日ダルシャンを受けてもらいたいというのが目下の願い…。

インドでは、誕生日の祝福を同胞やお世話になっている人々と分かち合うために、誕生日の人が食べ物を配り歩いている光景を見ることができる。この前は、見知らぬ小さな男の子がお父さんに連れられて、「Today is my birthday(きょうはボクのたんじょうび)」と恥ずかし気に言いながら、ちっちゃい足で、一生懸命、みんなにキャンディーを配り歩いていた。 なんて微笑ましい…。 そういった場面に居合わせると、なんだかほのぼのとした幸せを感じる。


あー、母と妹も早く来ないかな。ワクワク。