サイババへの手紙 〜 Part.2


『Once He takes letter, it become his promise ― サイババが手紙を取るということは、“スワミが約束されたことを意味する』 と確信を持って断言する彼・・・。

手紙の内容がそのまま実現することもあるし、手紙を受け取って頂いたことにより新たな道が開け、物事がすんなりとより良い方向に転換することもある。
そして、受け取って頂かなくても、手紙を書くことによって今の想いや今置かれている状況をスワミに認識して頂けるので、書くだけでも充分に、意味があるらしい。何故なら、「手紙を書いた」という行為に対する反動が、必ず返ってくるから・・・という理由。


よく、「この世は、何をするにしても、成功には人間の努力と神の恩寵の両方が必要です」と聞くけれど、この場合、「手紙を書く」という行為が、人間側の努力で、それに対してどう返ってくるかが、「神の恩寵」となるのかしら・・・?


サイババは、69歳目の降誕祭講話中、「神はふさわしい時を待ち自らの役割を演じる」というテーマの中で、手紙について以下のように語っている。
『神は郵便配達人のようなものです。郵便配達人は手紙を宛先の住所に配達し、その家の人は手紙に書いてあった良い知らせに喜びます。郵便配達人は別の手紙を別の家に配達し、その家では手紙に書いてあった悲しい知らせに嘆き悲しみます。手紙を受け取った人の喜びや悲しみは郵便配達人に原因があるでしょうか? いいえ、そうではありません。原因はそれぞれの手紙の内容にあります。喜びや悲しみとしてあなたが体験するものは、あなた自身の行為の結果です。神は観照者にすぎません。』


また、別の機会に 「あなたが神から、あなたは神の帰依者であるという受領証明を受け取るまでは、あなたは神の帰依者ではないのです。」という内容の講話を読んでいたこと思い出して、背筋が寒くなった私・・・。


と、いうことは、神に帰依者と認められない限り、私は神の相手にされないということ?
私よりも遥かにサイババの近くにいる彼も、「この世で一番難しい事は、神のダルシャンを受けること、そして神の恩寵という富を獲得すること。それさえ叶えば、その他のことは全て容易になる」と幾度となく語っている。


スワミの英知を実際に目の当たりにすることによって、畏敬の念がより深くなったということかしら?日々サイババと触れ合い、手紙を受け取って頂く機会に恵まれていたら、妙な優越感とか親近感が湧いて、スワミに対する姿勢や手紙の内容が、ぞんざいになったりしないのかな?と思ったりもするものだけど、そんな素振りは見られない…というか、毎回、真剣そのもの。


そうしてサイババも、「すべては神の恩寵しだいである」という講話の中で、次のように説いている。

『神に関わることには「不可能」という言葉は存在しません。神は何でも成就することができます。あなたが神に完全に全託するなら、神はあなたの行為の結果を取り消して、あなたに恩寵を注ぐことができます。自分はカルマ・パラに縛られていると考えて、憂鬱になったり落胆したりする必要はありません。 もし、あなたの祈りが真摯なものであれば、神はあなたのカルマ・パラを取り消すことができます。』


・・・、ということは、ある程度自分で努力して、神に全託するなら、願いは叶うってコト?でも、そもそも私に神の恩寵を受けるなんて資格はあるのかな?
聖仙ナーラダ(Narada Muni)は、『バーガヴァタ・プラーナ』(シュリマッド・バガヴァタムŚrīmad Bhāgavatam)の中で、九通りの信愛 - THE 9 STEPS TO DEVOTION を提唱している。

# 種類 English 行為
1 シュラヴァナム Shravanam 神の栄光を聴くこと
2 キールタナム Kirtanam 神の栄光を歌うこと
3 ヴィシュヌスマラナム Vishnu Smaranam 神を憶念すること
4 パーダセーヴァナム Padasevanam 神の蓮華の御足に奉仕すること
5 ヴァンダナム Vandanam 神を崇敬すること
6 アルチャナム Archanam 神仏の像を礼拝すること
7 ダースヤム Dasyam 神の召し使いとして奉仕すること
8 スネーハム Sneham 神の親しい友となること
9 アートマニヴェーダナム Atmanivedanam 真我なる神に全託すること

直接サイババと交流する機会が少ない私達は、霊的文献やスワミの講話を読み、信仰心やその概念を「勉強」する。そして私達が触れる“神と信仰の世界”は、生活臭を排除したストイックで、美しい観念に彩られた世界。

一般的な風潮として、「何も求めずに神と歩む」ことや、「偉大であることよりも善良であること」を美徳とし、「すべて神の御心のままに」という、なにがあっても「これが神のご意思なのだ」と心の底から思える心境を最高位の全託とする思想が、絶対的な土台となっているように感じる。

もちろん、それはそうなんだけど、なんだろう、この違和感は・・・?
従順を美徳とし、インド人に比べて超が付くほど生真面目な私達、日本人の多くは、『勉強した文献の内容』を“正確”に実践できるか、それは“御教えに反してはいないか?”ということに非常に敏感で、エゴが出そうなことやスワミの御教えに反するかもしれないリスクを犯すことに対して極めて慎重…。
うーん、だから、日本のセンターは、あんなに素晴らしい活動をすべて無料で、・・・しかも、あんなにひっそりと(!)、行っているのかしら?既にインドに移住してしまった私は、もうアクティブメンバーではないけれど、私は、サイセンターのプログラムに参加するのが結構、好きだった。

バジャン唱歌ヴェーダ練習など、センターで用意されているプログラムは、先述した九つの行為が行えるよう満遍なく網羅しているし、サイババ自らが発案し、推奨している探求の手法、スタディーサークルでは、一つのテーマをダイヤモンドの側面を見つめるように色々な角度から眺め、他者と一緒になって、最終的に、最上部の面を発見していく。そのプロセスは、多様性の中に潜在する一体性(真理)を学ぶ上で、とても素敵な機会だと思う。

「こんなに素晴らしい活動をこんなに、ひっそりと・・・!」
元来、素晴らしいものを見聞きしたら、人に伝えて皆と一緒に分かち合いたいという性分のせいか、私はこの「ひっそり感」にたいそう驚いた。うーん、“スワミから頂いた秘宝”を自分や信用できる仲間内さえ享受できればよいという思いなのか、過去によっぽどひどい事があったのか、それとも伝達する術がないのか、もしくは見知らぬ人に伝えてより多くの人と分かち合うことは善良さではなく偉大さを求める心…エゴに触れるというこのなのかしら・・・と、その理由を捜しあてようと思考を巡らせた。

ここで、興味深いなぁと感心するのは、同じ講話を聞いても、日印、とくにスワミの学生と帰依者とでは講話に対する解釈やアプローチ方法が、異なるということ。「如何に正しくあるか」に焦点を当てるか、と「如何に実現させるか」に焦点を絞るかの違いなんだと思うけど、おそらく、信仰心を「学ぶ糧」と捉えているのと、「生きる糧」とする感覚の違いなのかも・・・。

だからこそ、手紙の内容も、より観念的なものが好まれ、『●● してください!と依存し過ぎる手紙は控えた方がよい』とか、『未来形ではなく願いが叶ったと想定して現在形、もしくは過去形の言葉で綴る』…、『失礼のないように感謝を込めて書く』といった色々な流儀が語られているのかしら・・・。


本題に入る前に前置きが長くなってしまいました・・・すみません。


サイババへの手紙 〜 Part.3に続く・・・。



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