ナーラーヤナセヴァ

午前中はナーラヤナセヴァがあった。

ナーラヤナセヴァは、困窮している人たちへの食事の提供の奉仕として世界各地で行われている。

私も過去に、ボランティアグループでホームレスの方におにぎりを配ったり炊き出しをしたり・・・というのに何度か参加したことがあった。コンビニで買ったおにぎりを配ったり、一汁一菜を配るといった簡単な食事が多い。どちらかというと質より量で、何日も食事をしていない人に食べ物を配布することや、きれいな心でホームレスの方々と接すること自体に意義を置いている。

以前、それを想定して東京センターのナーラーヤナセヴァに参加し、弁当の豪華さに驚いて質問したことがある。デパートで売れば軽く800円ぐらいはするんじゃないかという豊富な内容の菜食弁当を無料で配り、同じものをセンターのお弁当として500円で販売して、それを原価回収にして、奉仕にあてている。

敬意を表しつつも、何もそんなに豪華にしなくても、質より量でいいんじゃないかといった内容の疑問を呈したら、この奉仕は、愛や慈愛の心を培うといった目的と同時に、神への礼拝として行っていて、各人の肉体に内在するナラヤナ神(維持を司るヴィシュヌ神の別名)に充分に満足して頂くために行っているため、食数は少なくても、充分に喜んで頂ける内容の弁当を作ることになった、との経緯を教えてもらった。

なんでも、完全に人を満足させるのは容易ではなく、たとえば他のもの・・・物や金銭やポジションといったモノを差し上げても、満足する前に直ぐ、「もっと欲しい」「他のがよい」といった思いが湧き起こり、一瞬たりとも、内在神が満足するまでには至らないそう。変わって食べ物の場合、食事を終え、満腹感を覚えて食欲が完全に満たされるとき、たとえそれが一瞬であっても、心の奥に内在する神にも完全に満足して頂くことができる。礼拝としての奉仕。インドで始まったこの奉仕が、世界各国で、たとえば 世界の端のFar East - 極東と云われている日本においても趣旨から脱線せずに行われていることに確固たる愛や理念の影響力を感じた。

コダイカナルでは、いつも女性がダルシャンラインに並ぶ広場にて:title=ダルシャンラインに並ぶ広場]にて、およそ15000人の現地の人たちに食事とお水、そして衣服が配られた。一般参拝者にも、プラサードとして、同じものが配られている。私たちは充分食が足りているから私たちの分も低所得者層の方々に配ればよいのに・・・っと思ったけど今生で私たちが裕福でも貧困でも、神様にとってはみんな自分の子供だから、一緒ないんだなぁと、ふと思った。

一般の参拝者がスカーフをしたセヴァダルに混ざって、プラサードのお皿をたらい流ししている。私はもともとセヴァ好き。他の人が忙しくしているのを見ると、自分がじっとしているのが申し訳ないような居心地の悪さを感じて無性に何か手伝いたくなる。居心地の悪さを持て余すぐらいなら、一緒に身体を動かしていた方が、楽。これは、奉仕というより、私の欲求に近いような気がする。一般参加者がどんどん参加していっている様子を見て、わたしも参加したかったけど、何のために参加するのか?とちょっと思ってみた。アシュラムでは、自問自答する時間が、たっぷりと用意されている。

私もナーラーヤナセヴァに参加した、という満足感が得たいのか、手が必要だから身体を差し出すのか・・・

いつもは、前から1−3列目に座っているのに、その日に限って最後列に座っていた。参加するためには何人もの参拝者の間を足を踏まないよう謝りながら通っていかなければならない。この場において、参加するのは多分前者だと思えた。座っている人達の間をくぐって前に出てセヴァをしにいくのはエゴのように思えてあえて参加しなかった。



広場に集まった人たちに、サイババ自身がナーラヤナセヴァを行い、その後、イーシュワランマの像がSAI SRUTHIの前の湖畔の広場に東方に向けて設置された。東向けに設置された理由は太陽神が、聖母のダルシャンを毎朝受けられるように、とのことだった。



サイババが戻ってくるのを待っている間、最後列に座っていたことが好をなして思わぬ方とお会いした。

「日本の方ですか」?流暢な日本語を聞いて、思わず辺りを見回すと、上品な眼差しのインド人女性が微笑んでいた。

「はい、そうです」英語で答え、コダイカナルには、今年、男女合わせて40名ほどの日本人が来訪しているため、グループ席を頂いていることをお伝えした。その方は、日本でお世話になった方のお姉様にあたるとのことで、自然と日本の話に移る。久しぶりに日本に思いを馳せて懐かしい思いが込み上げた。



スワミがダルシャン会場に戻ってこられ、プラサードのお皿が依然として配られている間、私はそのまま座ってバジャンを楽しんだ。目の前でセヴァをしている人を見つめながら、悠長にバジャンを歌っていることに多少の居心地の悪さを感じながら、少し祈った。「今でなくても、きっとスワミは私にセヴァをする機会をあたえてくださるはず。」心の中で、欲求を満たしたいという思いを祈りに変えた。

アーラティー後、最後列までプラサードが回ってきた。食べずに帰ろうかと思ったら、誤ってダルシャンラインに紛れ込んだナーラーヤナセヴァ対象のインド人が現地語で何か言って私に横に座るようにジェスチャーしてる。

左手で食べてる。インドでは、左手は不浄なので食事中は、皿に触れないようにするのが慣わしと教わっていた。あ、右手を怪我してるんだ。促されるように横に座ったら、膝の上に置いた紙皿を持って、食べ物がこぼれないよう水平に支えるように訴えている。言葉がわからなくっても、心を無にして相手を観察すると何をしてほしいのかよくわかる。

コトの流れが解らないままにもナーマスマラナを繰り返しながら言われた通りにしていると、ある思いが浮かんだ。

「あ、ババだ。奉仕をしたいという祈りに応えてくださったんだ。」

こんな他愛もない祈りにも答えてくださるなんて…私は涙ぐみそうになりながら、食べ物に感情が入らないようナーマスマラナを続けながら水を勧めたり手を拭いたりと世話を続けた。

給仕後、プラサードは食べた方が良いと強く勧められ、結局私もいただいた。帰りがけ、同じ方向のホテルに滞在しているこということで先ほど出会った方のタクシーに同乗させて頂くことになった。その方は、靴をよく無くされるということで、靴をクロークに預けているそう。私は昨日から、クロークに並ぶ長蛇の列に嫌気がさし、クロークの脇に置くコツを覚えて待ち時間から免れている。「靴をなくすのはカルマ落としとして良いらしいですよ」・・・と言っていたら、なんと、私の靴が無くなっていた。

なんてありきたりな展開…。自分の身に起こって初めて人の気持ちがわかる。他人の不運に対してそんな簡単に、発想の転換を呈するような言葉を言うもんじゃない・・・と少し反省した。結局、ホテルまでお送り頂き、ご厚意により使わなくなったという靴をお譲り頂いて難無きを得た上に夕食をご一緒させて頂き、素晴らしい時間を過ごさせて頂いた。

この先回りをした用意周到な展開…。私たちには理解できなくっても、神様は常に最善を用意してくださっているのだから…という言葉を思い出した。一日が終わる頃には、最後列に座る羽目になった時点で抱いた落胆は、すっかりと消え去っていた。。。というかとっても素晴らしい一日に感謝した。

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