コダイ ダルシャン 2

朝のダルシャンは屋外の中庭で行われ、スワミが手紙を受け取ったり、信奉者に話しかけたりしながら車いすで集まった人々の間を通り過ぎる。

セキュリティーチェックも緩く、時にはビブーティーの袋や花を祝福してもらったりと、ゆったりとした時間の中で皆の顔に笑顔があふれる。

夕方のダルシャンは、邸宅続きのマンディールでバジャンを捧げ、運が良ければ、サイババが中庭に降りてこられてダルシャンを授かることができる。コダイカナルの夕方は冷えるから、ショールや上着が必要。高齢のサイババを想って外には出て来られないよう願う気持ちと、ダルシャンに授かりたい気持ちが心に浮かんだ。

何時間並んでも、ダルシャンを受けられない日も、経験した。マンディールに入れるのは、集まった人数の1/3から1/4ぐらい。夕方のダルシャンには、スワミがマンディールに入りっきりで、屋外に出てこられない日もあって、過去にはVIPやスタッフが優先的に入れて一般の帰依者がまったく入れない年もあったのよ。。。苦い感情が入り混じった声でスペイン人の長期滞在者が囁いた。こういう話になると、欧米人がよく口にするのが、“It's not fair そんなの不公平!”という言葉。ある一般参拝の西洋人がセヴァダルに不公平さを説明し、改善するように諭してから状況が改善したらしい。

ここでいう配慮のある運営とは、参拝者の負担にならないように、トークン(くじ引きをする)時間を一定の時間に決めておくことや、配列の時にあとから来た人たちを間違って先に誘導しないように工夫するといった些細なことだけど、ダルシャンを受けるためだけに世界中から何十時間もかけて集まって来た人たちにとって、司令塔的存在のセヴァダルの配慮や先見性は、天地を隔てるぐらいのインパクトを及ぼす。

参拝者の集まり具合を見て、混みそうだとその場で集合時間を切りあげたり、場外に参拝者を待機して整列させた状態でトークンを終えてしまったりと、この整合性のなさや配慮の欠如はフェアプレーを重んじる人たちにとって受け入れ難いだろうなぁとは思うけど、こればっかりはさすがに、何十回、ときとして何百回に及ぶ過去生の(昨日までの今生も含む)高徳と信愛に左右されている気がする。私たちには見えないことが世の中にはあって、人が覚えている限りの表層的な目には不公平に見えても神の目からしたら極めて自然の流れがあって、そんな時は変にジタバタせずに、これからは、より良くあろうと努めることが最善策のように思える。そして今の私にとっての最善策が、ナーマスマラナなんだと思う。現に、コダイカナルでは、いくら最後の番号を引いても、最前列に座ってスワミのダルシャンを間近で受けられる機会を与えられることもある。

ただ、それと同時に、不公平な状況をただ一人の精神修養として受け入れるだけではなく、全体の幸せを考えて改善していこうと努力する欧米人の姿勢には脱帽して拍手を送りたい気持ちにもなる。

ここは、南国のインド。しかも組織誘導に慣れていないセヴァダルは目の前の処理に必死で、どのような結果を導くか予測せずに意思決定して実行に移すから、グループ全体が当座しのぎの思いつきに振り回されて右往左往する。経験豊富なセヴァダルもいるけれど、年齢層も、十代後半から五十代までと幅が広く、全員がプロ意識に徹しているとは限らない。似たようなことはインドやボランティア機関でなくても数多の組織で起こりがちのような気がする。

ジャンルは違うけど、CMMIの初期レベルの運営・・・かしら。

社会人になってから、プロと素人の違いは、顧客志向が備わっているか否か、と教わってきた身としては、この運営っぷりを目の当たりにして怒りを通り越し、神様は一体どんな思いでこの状況をご覧になっているんだろうという気持ちになる。



目の前に座っている白人が、ここのセヴァダルはいったい何を考えてるんだね?と愚痴をこぼしている。気持は、わかる。彼女を先頭に座らせておきながら、前の列の間に50人ほど誤って人を入れてしまったのだ。セヴァダルは大勢いる。こういった混乱は最前列と最後列に人を配置すればいとも簡単に回避できるけど、白人の帰依者に、愛をもつようにと諭す気にもならないし、炎天下の中で毎日毎日、聞きわけの悪い参拝者を相手に大変な作業をしているセヴァダルに対しても、感謝の気持ちがある。

以前から痛感している私の弱点として、リーダー的存在であるべき人が視野の狭い、稚拙で利己的な運営をしてる!と感じると(わざわざ)怒りを抱き、容赦なく心の中で、時には声に出して非難し、傷つける傾向がある。この思考の癖が、個人的なトラウマから来ていることは充分承知し、改善しないとなぁ…と感じている。この状況に置かれているということは、事象を批判するだけでなく、私にも、何か学ぶべきことがあるからだとすると・・・慈愛だ。

執着。もちろん、私もよい席に座りたいし、道理的に間違ったコトを見ると許せない性質。時間はたっぷりあるから、自分の気持ちを内省し、整理することができる。良い席に座りたいという欲を切り離すと、なんだか、小さい子が一生懸命頑張っているように見えて微笑ましくなり、責める気持ちが薄れていった。

どうしても苦言を呈したいなら、責める感情をいれずに愛をもって、相手と相手の立場を尊重して伝えること。これ、私が必要だったことだ。

ダルシャン会場に移動する際、セヴァダルに、笑顔でいつもありがとう、と感謝を述べてから、配列に関して、今日のことは終わったことだけど、明日からはこうした方がよいんじゃない?と言えるようになった。

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