家庭の女神(グリハ・ラクシュミー)


先週末、夜行列車でプッタパルティからチェンナイに移動する間、私達夫婦は、二人の出会いから結婚までのことを色々と思い返しながら、今後の行く先を話し合った。冗談交じりに、そして少し、シリアスに...。
結婚とは、人生にとっての一大事。それを決定するのに完全に他人(神)任せにしていた私は、なんだか自己実現したという実感が湧かずに、ある日突然舞台の上で、台本では読んでなかった箇所でシーン替えが起こり、役者交代をさせられたような感覚が心のどこかにあった。一旦決めたことを甘えて持て余すのは周りに対して失礼だし、精神的にも不健康。
就寝する前、私は心の中でそっと祈った。「スワミ、この結婚はあなたがお決めになったものです。精神的にも行動面においても、良き妻となれますよう、どうかお導きください。全てにおいて、私達をお護りください。あなただけが、頼りです。」


列車がチェンナイに着いたのは、早朝5時過ぎ。軽く睡眠し、彼の出社前に朝食を摂っていたら、大学の後輩から一本の電話がかかってきた。この後輩も、彼をとても慕っている人物の一人。何やら話しこんでいる様子。電話が終わって、彼に何の電話だったの?と聞くと、昨日の夜、スワミが夢に出てこられた...とのこと。

場所は、ガンジス河上流のヒンドゥー教の聖地、ハリ(ハル)ドワール(Har:シヴァの門の意 - Haridwar)。ハリドワールは神々の住む山地への入口と言われていて、沐浴することによって身を清め、罪を洗い流すと言われている。彼の後輩は、サイババと共に私達夫婦と一緒に巡礼に来ていた。
ガート(沐浴場)に付くと、サイババが、私達夫婦に、沐浴してきない、と仰った。サイババの御前で一緒に沐浴するのを臆した彼は、先に私が行くよう、促したらしい。そうするとサイババは彼に向って、「しっかりと彼女の手を取って、一緒に沐浴所に連れて行ってあげなさい」と仰った。そうして言われた通り沐浴を済ませ、戻ってきた私達をサイババが祝福された。一連の様子を見ていた知人は、「あ、この結婚はやはりスワミのご意思によるもので、スワミの祝福によって成り立った縁組だった」と直感したらしい。そして、嬉しくなって朝早くから、彼に電話をしてきた。

こういうことがあると、スワミは本当に凄いなぁというか、あらゆる人々の心の動きを知っていて、絶妙のタイミングでサイババを頼る信奉者を安心させたり、疑念を晴らしたり、祝福されたりするんだなぁと、妙に感心してしまった。


前回のブログでひょっとして私が横暴にも夫からインド文化を押し付けられているのでは・・・と過度に心配された方々がいらっしゃったので、今回は本題に移る前に、日本では味わったことがないインド人の美徳を紹介したいと思います。


婚前私は、あるジョーティッシュ占星術師に、「真にスピリチャルな相手と結婚すれば、心から大切にしてくれて、良い人生を送ることができる、もし、世俗的な人と結婚したら、相手はあなたを阻害し、惨めで孤独な後半生を送るだろう」と言われていた。
真にスピリチャルな相手とはどんな人を指すのか、人格においてどの要素を指すのか、よく分からなかったけれど、彼を観ていると「スピリチャルな人間」とはこういうことなのか、と感心することが多い。

先ず、大変些細なことだけど毎回感心することは、何よりも神様と両親、そして家族を大切にしていること。
これに関しては、また詳しく別の機会に語りたいと思うけど、簡単に言うと、神への信頼の置き方が、根本的に私とは次元が違う気がする。両親を大切にすることに至っては、両親を気遣い、心配させないように三日に一度は必ず電話して近況報告をしている。
その上、私の家族のことまで、まるで自分の肉親のように気遣い、しばらく私が連絡しなければ、「連絡しないと、絶対心配してるよー。電話してあげて。お義母さんは、風邪治ったのかな?義妹は仕事し過ぎてないかな」と、目の前でスカイプをして元気な声を聞くまで納得しない。 日本にいた時は、忙しいこともあって数カ月も平気で家族と話さないこともあったと思う。インドにいる方が家族と頻繁に話すようになったというのは面白い変化。
そして、神様と両親を大切にする彼は、『神様の恩寵と両親の祝福さえ得られれば、人生なんでも成し遂げられる』と、心の底から信じている。彼の過去を聞いていると、実際、その通りになっているような気がする。

変わって妻に対してはどうか、というと、封建的だから言いなりになっているのでは・・・というのは逆で、インドでは、妻はグリハ・ラクシュミー(家庭の繁栄の女神)として大切に扱われる...という噂通り、本当に、あっけにとられるほど、優しく、大切にしてくれる。
例えば食前の祈りが終わってご飯を食べ始めるとき、彼は第一口目を必ずグリハ・ラクシュミーに捧げて(祝福を受けて)から、自分の口に食べ物を運ぶ。私が給仕で忙しくしていると、じっと待っていて絶対に、食べ始めない。頑なにその習慣を守る様子を見ているとそれは、なんだか私を一人の妻としてではなく、女神として扱っていることから出てくる行動のような気がする。先人が説く精神論として「夫を神と扱い、奉仕しなさい」と聞くけれど、私の中に、同じくその思いが根付いているかというと、かなり気合を入れた修練が必要、だと思う。

サイババは、夫と妻や子どもに対して、それぞれが守るべき規律を提言している。その一つに、「男性は、配偶者、妻として一人の女性、その人のみに誠実でなければなりません。」という言葉や「愛によって夫と結びついている女性は、実に素晴らしい香りを放つ花です。」といった言葉によって、お互いに誠実であるよう説いている。

それにしても結婚後は不思議と、全く寂しさを感じなくなった。この、「なんともいえない温かさや大切にされている感覚」はどこから来るのだろう?と思っていたら、おそらく敬虔なヒンドゥー教徒が結婚を神聖視していることや、離婚を前提として生活していないことに理由があるような気がする。
夫(妻)以外との距離の取り方を守る風習も、ここに起因していて、その...、夫婦の心の動きに<いざとなったら他の人を探す>といった駆け引きの要素が入っていないというか、神から授かったパートナーと一生涯を共にするという決意の深さが、知らぬうちに安息感を生んでいるのだと思う。インドの他の方々については、分からないけれど、彼の行動から学ぶことは多く、彼は自然と、男女のダルマ(規律)を守るようコントロールをしている感じ...。

例えば、彼と一緒にエレベーターに乗っているところに、二人組の女性が入って来る、とする。
普通(日本)ならば、夫は目的階までそのまま私の横に立っていると思う。そういった場合、彼はどうするかというと、立ち位置を変えて私だけが視界に入る場所、かつ、他の女性の身体には衣服も触れない場所に、移動する。
また別の機会に、私が女性の友達を紹介して三人で立ち話をすると、必ず相手の名前に「シスター(姉妹)」と付け、会話の中に私を交えて話そうとする。そして、私の前では絶対に、他の女性の話をしない。ほんとうに、サイババの教えを徹底しているというか、こういった行動が自然と出てくるのが凄いなぁと思う。

婦人の日の御講話で、サイババは、インド人女性のことを次のように語っている。「バーラタ(インド)は神聖さと貞節の国であり、高潔な女性の国という栄光をもたらす、すぐれた人格を備えた立派な女性を輩出しています」

国際結婚を生かして、お互いの文化において良いものは、国境に捉われずに吸収して人格を昇華させる術にした方がお利口...。彼も、日本人の仕事に対する誠実さや勤勉さに感化されて、業務もはかどっているみたいだし。せっかくご縁のあった国だからこそ、わたしも早く、インド文化に宿る女性の美徳を身につけたいと願ってやまない... です。



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